分かったが、納得はできないという感情
同担拒否の推しが被るのが嫌だ、という主張自体は理解できる。自分だけの特別な存在として推しを大切にしたい気持ちや、他人の解釈や応援の仕方に踏み込まれたくない感覚も、想像すれば分からなくはない。しかし、それと「共感できるか」「納得できるか」は別問題である。頭では理解できても、心のどこかで引っかかる違和感が残るのが正直なところだ。
推しは個人のものか、共有される存在か
推しは個人の感情によって成立する存在である一方、そもそも多くの人に見られ、支持されるからこそ活動が成り立っている存在でもある。そのため、推しを完全に自分だけのものとして扱う感覚には、どうしても無理が生じる。好きでいる気持ちは平等であるはずなのに、そこに線を引き、排他性を持ち込むことに違和感を覚えるのである。
境界線が生む息苦しさ
同担を避ける行為そのものよりも、その姿勢が周囲との関係を硬直させる点が気になる。推しの話題を避け、SNSでも常に警戒し、誰かが近づくことを拒む。その結果、推しを好きでいるはずなのに、楽しさよりもストレスが増えていくように見えることがある。それは本来の「好き」という感情から、少し離れてしまっているのではないか。
理解と受容は別物である
価値観は人それぞれであり、同担拒否を否定するつもりはない。ただし、理解できるからといって、必ずしも受け入れられるわけではない。分かった上で、それでも距離を感じる。その感覚を抱く人がいることも、また自然なことである。無理に歩み寄らず、線を引くことも一つの選択肢だろう。
同担拒否 理解できないに関する口コミ
「気持ちは分かるけど、そこまで排他的になる理由は正直ピンとこない」
「推しはみんなのものだと思っているので、拒否されると戸惑う」
「理解しようとはするけど、共感まではできない感覚がある」
「同担拒否を主張されると、こちらが悪いことをしている気分になる」
「分かろうとしても、どうしても壁を感じてしまう」