一緒に楽しみたいという感覚はおかしいのか
同担拒否という言葉を目にするたび、正直なところ違和感が残る。好きなものを好きだと言い合い、盛り上がる時間こそがファン活動の醍醐味ではないのか。推しへの想いが重なるからこそ、語り合える熱量が生まれる。その喜びを避ける理由が、どうしても腑に落ちないのである。
喜びは共有するほど増える
ライブの感想、最新情報への驚き、過去作品の再評価。これらは一人でも楽しいが、誰かと共有することで何倍にも膨らむ。視点の違いは発見を生み、解釈の幅を広げる。同じ対象を愛する者同士が集まる空間は、決して奪い合いではなく、創造の場であるはずだ。
境界線を引くことで失われるもの
距離を保つ選択が安心につながる場合もあるだろう。しかし、最初から線を引いてしまえば、偶然の出会いや学びの機会は減る。感情を守るための壁が、結果として楽しみの総量を小さくしてしまうこともある。自分の好きという気持ちに自信があれば、他者の存在は脅威にならない。
多様な楽しみ方を尊重したい
一緒に楽しみたい派が全員同じではないように、距離を保ちたい派も一枚岩ではない。重要なのは、互いのスタンスを攻撃せず、選択肢として並べる姿勢である。排除ではなく共存。そのほうが界隈全体は健やかに回ると考える。
それでも一緒に笑いたい
推しを好きになった原点は、きっと楽しかった瞬間のはずだ。その原点を大切にするなら、喜びを分け合う道を捨てる必要はない。私は今日も、同じ熱量で語り合える誰かと、一緒に楽しみたいと思うのである。
一緒に楽しみたい派の口コミ
「同じ推しを好きな人と話すと、新しい見方が増えて楽しいと思う」
「一緒に盛り上がれる仲間がいるから、長く応援できている」
「距離を置くより、ルールを決めて共有した方が気持ちが楽だった」
「喜びを分け合うと、推し活の満足度が上がる」
「一緒に楽しみたい気持ちは自然だし、否定されるものではないと思う」